佐渡金山とは?世界遺産に推薦されたということで、佐渡島民がまとめる

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佐渡金山とは?世界遺産に推薦されたということで、佐渡島民がまとめる

はじめに

世界遺産に佐渡金山が推薦されたと盛り上がっていますね。

私は佐渡島に住んでいますが、全く佐渡金山のことは知らないので今回調べたことをまとめていきます。

地元ならではの小ネタを挟んで解説していきます。よろしくお願いします。

佐渡に金坑は複数あります。

名称住所閉山
西三川砂金山(にしみかわ)佐渡市西三川835−11872年
鶴子銀山(つるし)佐渡市沢根 県道31号(国仲北線付近)1946年
新穂銀山(にいぼ)佐渡市新穂 大野川ダム付近
相川金銀山(あいかわ)佐渡市下相川13051989年

佐渡島内には4カ所あり。相川金銀山が最大の規模のため、国の重要文化財と重要文化的景観に指定されています。

道遊の割戸(どうゆうのわりと)撮影2月、駐車場より
相川金銀山の観光入口の駐車場
相川金銀山(2022年2月現在)の大立堅杭は修復作業中です。
北沢浮遊選鉱場跡(相川金銀山から車で5分)
北沢浮遊選鉱場跡を横から見てみた
相川病院の横にビューポイントがあります。右側の白い建物が相川病院です。
北沢浮遊選鉱場跡の駐車場より撮影

※余談ですが北沢浮遊選鉱場跡に隣接して「佐渡奉行所跡」もあります。近くに「日本海展望台」など観光スポットがあります。

佐渡の金銀山の始まりと衰退

1542年(天文12年)に外山茂右衛門という商人が金穿し(採鉱夫)を連れて、砂金の採れる川の上流の鶴子山で銀の採掘始める。鶴子銀山(つるしぎんざん)が見つかったことで、佐渡島内の領主たちが銀山争奪戦を始める。

1577年(天正5年)に一向宗であった採鉱夫たちの一向一揆が勃発する。それを抑えるために上杉氏が平定のために介入してくる。この争いに参加していた領主は、羽茂城の本間高信、吉田上の三川氏、雑太城の本間山城、川原田城の本間但馬秀氏、久知城の本間与十郎、吉岡城の本間遠江守、沢根城の沢根対馬守高秀、潟上城の潟上弥太郎秀光などの名前が出ている。

現在の佐渡では本間という名字が多いのは、このときから本間さんが沢山いたためかもしれない。

1585年(天正17年)に豊臣秀吉から上杉景勝に佐渡の支配を任せられて、佐渡は数日で上杉景勝に支配される。

その後、直江兼続が金銀山の経営をすることになる。佐渡の山は掘ると大量の水が出てくるため、人手が余計に必要になった。

銀が沢山ほしい秀吉は石見銀山(いわみぎんざん)で働いていた経験豊富な金穿大工たちを派遣する。それにより佐渡金銀山の採掘技術が向上することになる。

石見銀山(いわみぎんざん):島根県大田市にある日本最大の銀山、戦国時代から江戸時代まで採掘されていた。2007年に世界遺産に登録されている。

1600年(慶長5年)、徳川の時代になり、金銀山のの管理を商人の田中清六が経営者に任命される。清六は山を自由に試し堀りできる規則を作る。

だれでも金脈を見つけることが出来れば、大金が手に入ることになったため、山師(鉱山の発掘や鉱脈の発見・鑑定をする人)が増える。

このため島内の人口が数万人増加した。つまり全ての金銀を幕府が得ているということは無く、各地での金銀の流通はあった。

1610年(慶長15年)になると、坑道が深くなり採掘に伴う経費が増加することで、金銀山が赤字経営になってしまう。

数年後には、お米に幕府の補助制度が適用され、島内では安く買えるようになったりする。それでも焼け石に水だったようである。

このころの金銀山は、大久保長安が管理していた。赤字経営の管理責任問題を問うためか、家康から金銀の隠匿説やキリシタンと疑われた後、大久保は切腹するように言われてしまう。

徳川の埋蔵金説の出所は、大久保長安の金銀隠匿説も関係している。

慶長・元和・寛永と金銀山が衰退することで、島外との貿易も減り、流通していた焼き物や漆木が衰退し、農産物や海産物が流通するようになる。島内の人々は金銀山での賃金で主に食料品の売り買いをするようになったためである。

近代での佐渡金銀山

1868年(慶応4年)に江戸幕府が北海道の茅沼炭鉱(かやぬま)から、イギリス人技師のエラスムス・ガウワーを佐渡に送っている。その数か月後に幕府が崩壊し、ガウワーも佐渡から引き上げている。

しかし1869年に明治政府に雇われたガウワーは再度、佐渡に上陸し佐渡金銀山の改善を始めることになる。明治政府も当時の最新鋭の機械を海外から買い揃え、かなりの投資を金銀山にしている。もちろん赤字である。

明治になり蒸気機関が導入さえたことにより、再度金銀山は活気を取り戻し、鉱山学校(専門学校)が建てられる(明治23年、1890年)。このころの佐渡金銀山では、3000人が働いていたとされている。

今でいうところの請負会社もあって、ある請負会社の社員の出身は、新潟県内、佐渡島内、長野県、群馬県、茨城県、福島県、山形県、石川県、朝鮮となっている。

戦争と佐渡金銀山

昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、重要鉱物増産法が公布される。そのため金よりも銅、鉄、亜鉛、石炭の増産・確保が重視されるようになり、金の採掘が減少する。

国策による増産運動のため、大立堅杭櫓(現在修復中)が木造から鉄骨造に建て替えられ、岩盤をくり抜いた坑内に捲揚室が移設された。また高任粗砕場北沢浮遊選鉱場が建設された。

大立堅杭内に現存する大きなドラム式捲揚機や鏨岩機(さくがんき)空気圧縮機(コンプレッサー)は見学できます。

高任粗砕場:佐渡鉱山で採掘した原鉱を選鉱・破砕するための施設。昭和12年(1937年)に建設され、平成元年(1989年)まで稼動した。

北沢浮遊選鉱場:当時の最新技術だった浮遊選鉱を使った選鉱場、シックナー(沈殿濃縮器)も設置されている。昭和12年(1937年)から昭和27年(1952年)まで稼働した。

浮遊選鉱は本来銅の選別に使われていた技術だったが、佐渡金銀山では金と銀の回収・選別に応用された。世界で初めての革新的な技術だった。これらの増産施設により、金の生産量は飛躍的に増大した(年間1537㎏)。

昭和20年(1945年)に終戦を迎えると戦争中の無計画な増産の影響で採掘量が激減し、昭和27年(1952年)には規模縮小のため約500名の従業員が50名弱まで減少した。

このため高任粗砕場北沢浮遊選鉱場が閉鎖された。海面よりも下の坑道はポンプが止められたため水没した。その後に有力な金脈が見つからなかったため、平成元年(1989年)に佐渡金銀山は操業を休止した。

佐渡金山の歴史をまとめてみた感想

初めて佐渡金銀山のことを調べてみまして、1600年(慶長5年)のゴールドラッシュと1937年(昭和12年)の戦時下の増産により、短期間で大量に金銀を掘っている印象が残りました。

日本の歴史として早い段階で発見、発展したことで日本経済に大きな影響を与えたと思います。私は昔の佐渡島は島流しの有名地だった印象を持っていましたが、金銀山の発展で町が大きくなり、罪人以外のいろいろな人が島に来ていたことが知れました。

次は金銀山に関する文化についてもまとめてみたくなりました。ページを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ご参考になれば幸いです。

最後に今年の夏に世界遺産として、佐渡金銀山が登録されるか会議があります。結果を楽しみにしています。

参考文献:『佐渡金山』著者:田中圭一、株式会社教育社、1980年6月5日

参考文献:『甦る鉱山都市の記憶 佐渡金山を世界遺産に』著者:五十嵐敬喜、岩槻邦男、西村幸夫、松浦晃一郎、株式会社ブックエンド、2014年10月8日

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