佐渡金銀山に関する詩や俳句について、「光と闇の金銀山」
金銀山という栄光の裏にある影を詠った詩があります。輝かしい栄光に関しては、あちこちで取り上げられていると思いますので、ここでは影の部分を紹介しつつ、時代背景をまとめていきます。
昔の大きな建造物というものは基本的に重労働で建てられているのが当たり前なので、べつに佐渡金銀山の世界遺産登録に反対しているということではありません。多面的に捉えることで、知識の幅が広がると考えています。
「鶯や十戸の村の能舞台」
大正13年(1924)に佐渡を訪れた大町桂月の句。十軒ほどの小さな集落でも、能の舞台があるので住んでる人に能が浸透している優雅さを表現した句。
佐渡島に能文化が伝わったのは、佐渡奉行に任命された大久保長安が慶長9年(1604年)に来島した際に能楽者の常太夫、杢太夫と笛・太鼓・謡・狂言師などを連れてきたことに始まる。
その名残として、現在の島内の各神社の境内に能舞台が建てられています。画像は西三川砂金山にある大山衹神社です。左側にあるのが能舞台、中央奥に社があります。
「国元へ帰る事なき者数を知らず」
文禄3年(1594年)以降は今までの砂金を採る方法ではなく、山を掘る方法で金を採掘するのが主流になりました。そのため砂金を採っていた領主の権威が失墜します。
地元の領主に残された収入源で強かったのが茶屋です。この時期はゴールドラッシュでしたので、島には数万の人がいました。そこで領主は遊郭経営を始めます。金を掘っては町で遊興にふける、という循環が出来たことを風刺したのが「国元へ帰る事なき者数を知らず」です。
現在の観光地としての佐渡金銀山の「早く外に出て酒を飲みてぇ、なじみの女にも会いてぇな」というフレーズも、労働を終えてから遊郭に行きたいと言っていることになります。アフター5にキャバクラに行ってたバブル期と大差はありません。
この遊郭は昭和30年代の売春防止法により消えることになります。佐渡市両津湊の金沢屋旅館など両津に遊郭の名残の建物が現存します。また佐渡市相川水金町に水金遊郭跡地があります。
「二度と来まいぞ金山地獄 来れば帰れるあてもない」
もうどっちなんだいという感じです。佐渡金銀山で重労働をしていた人が嘆いていた謡です。佐渡の金銀山は掘れば掘るほど海面より下になって、湧き水が出て仕事になりません。そのため、水替人足という排水要員がいました、その人たちが謡っていたとされています。
「休みや迎いに来る 休まにや勤まらぬ 大工迎いがなかよかろ 大工商売乞食に劣る 乞食や夜寝て昼かせぐ」
大工(金穿大工:ノミと金槌で掘る人)に関する民謡。
それだけ沢山の大工がいて、労働が苦しかったことが伺えます。照明に燈火を使っていたので坑道内は煙と岩を砕いて飛び散った石粉が舞っていました。
そのため呼吸器系の職業病に大工はなっていました。佐渡の金銀山には、救護施設のようなものは無かったようで大工は短命でした。
「大工するちうて親怨めるな親は大工の子は生まぬ」
「タガネ、番槌(つがいづち)やあばらの毒だ 叩きや新床でも埃がたつ」
「早く叩いて称名寺山へ あとは花松立てぐさり」
「大工すりや細る 二重まはりが三重廻る」
「大工商売乞食に劣る」のフレーズは長野県茅野市と山梨県北杜市白州町大武川に伝わる寒天製造の時の作業うた「天屋節」と共通である。
「入梅晴(さつきばれ)や佐渡の御金が通るとて」
小林一茶が文化13年(1816年)に読んだ句です。一茶は佐渡島に渡ることはなかったですが、佐渡の相川町に親しい俳人(医者)がいました。
長野県の街道で、佐渡からの物々しい江戸幕府への金の輸送をどう思って見ていたのでしょうか?
「星拾ふおもひなるらめ此泉(このいずみ)」
安永4年(1775年)に刊行された「佐渡日記」に記載されている句です。
西三川の砂金を採る様子は、空の星をとるような気持ちだろうという意味です。
貴重な砂金を空の星に例えて、すくう時のときめきを詠んだもの。川を夏の季語の泉に置き換えています。
佐渡金銀山に関する詩や俳句について、まとめ
江戸時代以前は金山で労働させるために浮浪人を本土から送ったりして、強制労働させていたため、そのような詩も残っています。
いっぽうで佐渡日記や小林一茶などの第三者視点からの詩は、繁栄を表している気がします。世界遺産に登録されるなら、両側面を伝えることが大切だと思います。
佐渡に定住している私としては、今回の記事を書くにあたり、知らないことばかりでとても勉強になりました。つたない記事ですが、ページを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。ご参考になれば幸いです。
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