越後の七不思議は親鸞聖人(しんらんしょうにん)が作った?!
八珍柿の命名の説明として出てきた越後七不思議の解説になります。
さらっと言いますと新潟県の民俗学や歴史的な内容になりますので、ご興味のある方はどうぞご覧ください。
そもそも親鸞聖人ってどんな人?
政治的な変化が頻繁に起きていた1100年~1200年代の人です。1159年に平治の乱があり、平清盛と源義朝のいざこざから藤原家も巻き込んだり、1180年~1185年の治承・寿永の乱で平清盛と源頼朝が争っていました。そんな中の1173年に現在の京都市伏見区日野付近で皇太后宮大進(いまの宮内庁)の日野有範の長男として 生まれました(親鸞聖人の自伝が無いため誕生日に関しては詳細不明の場合もあります)。
1205年ぐらいまで京都の比叡山延暦寺で修業していたのですが、 後鳥羽上皇と比叡山との宗教的な考えの違いで起きた 承元の法難(じょうげんのほうなん)があり、親鸞聖人たちは流罪になってします。 親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられ越後国国府(現、新潟県上越市)に流刑されました。
流刑された越後で親鸞聖人は「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗って自分探しをしつつ寅さんとか黄門様みたいなことをやりつつ、仏教の布教活動をしてました。
そもそも越後七不思議って何?
親鸞聖人が新潟県上越市や新潟県新潟市などに住んで、1211年の勅免にて天皇から流刑が許されるまでの約5年間に越後の各地で説法した逸話です。
越後七不思議その1 始まりと終わりの「国府の片葉の葦」
親鸞聖人は最初に流刑になった国府(新潟県上越市)の五智国分寺(ごちこくぶんじ)境内の草庵(竹之内草庵)に住んでいた。ある日、親鸞は近隣の居多神社(こたじんじゃ、新潟県上越市五智)に参拝し 「すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と祈願したところ、境内の葦が一夜にして片葉になった伝説です。
「わが念願を守りて 、その奇瑞をあらわし給え」とも伝わっています。仏教がこの地に広まるよう、自分の流刑がはやく赦免になりますようにと願ったと言われている。奇瑞とは奇跡が起きる前兆のことで、願いが叶うなら前兆を見せてくださいということです。
約五年後に親鸞聖人は流刑が許され京都に戻ろうと思ったが、新たな布教のために東国(関東地方)に旅立った。このとき越後で説法を聞いた人々にとって、親鸞聖人との別れは辛いものでありました。その人々の心情が奇瑞を起こし、葦が関東の方角へなびき、葉も片側だけとなって、別れの辛さを表したという伝説です。
越後七不思議その2 トトロじゃん!?「田上の繋ぎ榧(たがみのつなぎがや)」
新潟県加茂市の北にある田上の護摩堂山でのことです。親鸞聖人の時代には護摩堂山の麓に城があり、その城主(宮崎但馬守)に招かれました。城にて親鸞聖人が法話を説かれていときのお茶受けとして榧の実(可食部はアーモンドみたいな見た目)が出されました。
この榧は農民が年貢米の代わりとして納めたものであり、飢饉や洪水でお米がとれないときに食用にしたものです。また農民は榧の実に糸を通して数珠のようにして保管していました。
その榧一粒を地に植え仏縁を説かれたら、翌年に芽を出して生い茂った。不思議なことに、その榧の葉は表と裏が逆になっており、なった実には糸を通す穴が開いていた伝説です。葉の表裏が逆なので、お手返しの榧とも言われています。「我が跡を慕うて来いよ繋ぎ榧み法のあとを通すひとすじ」と親鸞聖人が詠んでいます。
越後七不思議その3 竹の生命力とは!?「鳥屋野の逆さ竹(とやののさかさだけ)」
親鸞聖人が国府(上越市)から鳥屋野(新潟市)に移り住みました。現在の新潟市中央区の鳥屋野にて。親鸞聖人は 「この里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし」 、「 我が弘むる所の法 若し仏意に称(かな)はば 此枯竹必ず当に根芽を生ずべし 」と説き持っていた竹の杖を地面に突き刺しました。
このとき親鸞聖人は妻を娶ったことにより、周囲には戒律を破った破戒僧だと思われていました。そのために親鸞聖人の説法を聞いてくれる人がいませんでした。
詠んだ歌は「この里には親を亡くし、世の無常を知らされ、泣いている子はいない。稲穂が秋風になびくように、仏法を求める人がない。」、「私が広めている仏法が、もし仏の意にかなうなら、この枯れた竹(杖)にかならず根も芽も生じるであろう。」という内容です。
大地に突き立てた枯れた竹で作られた杖から根が張り、芽が出て立派な竹藪が出来ました。しかし、杖を上下逆に刺したのか、竹の枝葉も下に向かって繁茂していました。
越後七不思議その4 仏教においての魚!?「山田の焼鮒(やまだのやきふな)」
信濃川を挟んで鳥屋野の対岸に山田という集落がある(現在の新潟市西区山田周辺)。親鸞聖人の流刑が許され て、この地から旅に向かう前に宴が開かれた。建暦元年11月(1211年)のことです。
鳥屋野の草庵を出立されて、山田で別れの宴に参加したところ、焼いた鮒(ふな)が出された。親鸞聖人は「わがが真宗のみ法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんばこの鮒、かならず生きるべし」と言い、焼いた鮒を山王神社境内の池に放った。すると不思議にも鮒が生き返り泳ぎだした伝説。
それ以来、この地の鮒には焼いたような黒い色が付いているそうです。
寛政8年(1796年)に 山王神社境内(西蒲原郡黒埼山田)の大楠の枝が大風のため折れてしまったので切ったところ 、切り口に 親鸞聖人のお姿と焼き鮒の形が現れた。この大楠の切り口は山王神社の神官田代家に安置されています。
越後七不思議その5 栗だけにそっくり!?「保田の三度栗(やすだのさんどぐり)」
現在の新潟県阿賀野市保田の里に親鸞聖人が訪ねたとき、機織りを生業としているおばあさんが親鸞聖人の念仏のお礼に焼き栗を渡しました。
そして南無阿弥陀仏とありがたいお言葉を書いて欲しかったのですが、書いてもらう紙がありません。そこで織りかけの布を差し出して、親鸞聖人に南無阿弥陀仏と織物に書いてもらいました。
親鸞聖人は帰り道にて、「我が勧むる弥陀の本願、末世に繁昌いたさば、この栗、根芽を生じて一年に三度咲き実るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ。」と唱えました。
そしてもらい受けた栗をに蒔きました。生い茂った栗の木は親鸞聖人の言葉通りに、年に三度実をつけ、その葉の先は二つに分かれていたという伝説です。
越後七不思議その6 そういうこと!?「小島の八房の梅(やつふさのうめ)」
現在の新潟県阿賀野市小島、梅護寺のことです。親鸞聖人が小島の里に訪れた時、ある夫婦に「世路にまぎれて生きる者の、生死を出づべき道は、本願の念仏を聞き、他力廻向の信心のほかにありえない。」とお話になりました。
簡単に説明すると世路は渡る世間、他力廻向は阿弥陀仏の力によって、現世と極楽浄土を行き来する力のことです。
この話を聞いた夫婦は涙を流して仏の教えを喜びました。夫婦が親鸞聖人に出した、塩づけの梅を手に取って「弥陀の本願を信じまいらせ浄土往生疑いなくば、この漬けたる梅より芽を生じ、花一輪に八つの実を結んで末代まで繁り栄え、凡夫往生の証拠となるべし」と念じて庭前に埋められました。数年後、花八重の紅の梅の花が咲き、一輪の花に八つの実を結ぶようになったと伝えられています。
越後七不思議その7 樹木診断!?「小島の数珠掛桜(じゅずかけさくら)」
親鸞聖人が小島の草庵を出発するときに、手に持っていた数珠を桜の木にかけて、「わが弘むる他力本願のみ法にいつわりなくば、花房、数珠のごとく咲くであろう」と唱えた。
訳しますと「わたしの教えに誤りがなければ、この桜の花は数珠のようになるだろう。」となります。その通り、桜は数珠のような紅色の垂れ下がった花を数珠のつけるようになりました。 こちらも現在の新潟県阿賀野市小島の梅護寺 に同じくあります。
越後の七不思議は親鸞聖人(しんらんしょうにん)が作った?!:まとめ
ブログを始めてみて、記事を書くことでいろいろなことを調べるようになり知識が豊富になりました。
佐渡島に住んでいますが、農業のことで忙しく地域の勉強はしていませんでした。
今回の記事を書いてよかったと思います。ありがとうございました。
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